諸天神の部

徳川家康

徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉に臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く平和な江戸時代を画した。 家康は、戦国時代中期(室町時代末期)の天文11年(1542年)に、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)で出生した。父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。幼名は竹千代。 当時の松平氏は、弱小な一地方豪族(国人)であった。広忠は、臣従していた有力な守護大名・今川氏に忠誠を示すため、子・竹千代を人質として差し出すこととした。しかし、竹千代が今川氏へ送られる途中、家臣の裏切りにより、今川氏と対立する戦国大名・織田氏へ送られ、その人質となってしまう。竹千代はそのまま織田氏の元で数年を過ごした後、織田氏と今川氏の交渉の結果、織田信広との人質交換という形であらためて今川氏へ送られた。こうして竹千代は、さらに数年間、今川氏の元で人質として忍従の日々を過ごした。この間、竹千代は、元服して名を次郎三郎元信と改め、正室・瀬名(築山殿)を娶り、さらに蔵人佐元康と名を改めた。

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ入城すると今川と決別し、信長と同盟を組んだ(清洲同盟)。この後、元康は家康に名を改め、信長の盟友(事実上は客将)として、三河国・遠江国に版図を広げていくこととなる。永禄9年(1567年)には、それまでの松平氏から徳川氏に改姓し、徳川家康となった。天正10年(1582年)、本能寺の変において信長が明智光秀に討たれると、神流川の戦いにより空白地帯となっていた甲斐国・信濃国をめぐって関東の北条氏、越後の上杉氏と争い、この二ヶ国を手中にしてさらに勢力を広げた。

天正12年(1584年)、信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉との対立が深まり、小牧・長久手の戦いで対峙した。この戦いで家康は軍略的には勝利したものの政略的には後れをとり、豊臣氏に臣従する結果となった。天正18年(1590年)、小田原の役において関東を支配していた北条氏が滅亡した後、秀吉から関東への領地替えを命じられた(関東移封)。長年の根拠地を失ったものの、豊臣政権の下で最大の領地を得ることとなり、五大老の筆頭となった。

秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて勝利し、その覇権を決定づけた。慶長8年(1603年)には、後陽成天皇から征夷大将軍に任命され、武蔵国江戸(現・東京都千代田区)の江戸城に幕府(江戸幕府、徳川幕府)を開き、その支配の正当性を確立させた。慶長10年(1605年)に三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、駿河国駿府(現・静岡県静岡市葵区)の駿府城に隠居した後も、「大御所」として政治・軍事に大きな影響力を保持した。慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)にかけて行った大坂の役(大坂冬の陣、大坂夏の陣)においても、終始指揮を主導して豊臣氏を滅ぼし、幕府の統治体制を盤石なものとした(元和偃武)。

元和2年(1616年)、駿府城にて死去。享年75。その亡骸は駿府の久能山に葬られ(久能山東照宮)、1年後に下野国日光(現・栃木県日光市)に改葬された(日光東照宮)。家康は東照大権現(とうしょうだいごんげん)として神格化され、「神君」、「東照宮」、「権現様」(ごんげんさま)とも呼ばれて、現在でも信仰の対象となっている。