祖師・高僧の部

真言八祖

龍樹菩薩

龍猛、龍勝ともいう。仏滅後6~700年頃、南インドのバラモンに生まれ、幼い時から聡明であったが、このため慢心をおこし、隠身の術を使って友人と宮中に入ったといわれる。友人は捕らわれ死んだが、龍樹は助かり仏門に帰依した。後、三蔵を学ぶが満足することなく北インドなど諸国を歴訪し大乗経典を求めた。あるとき一人、静座観念していると大龍菩薩が現れ、龍樹の邪路に陥らんとしていることを哀れみ、龍宮に導き大乗経典を授けたといわれる。後、南インドにとどまり僧俗の教化につとめ、鉄塔を開いて金剛頂経を得た。終焉は不明であるが、長寿を保ち、さかんに大乗の法門を宣揚したことで、第二の釈迦といわれ、八宗の祖師と仰がれる。

龍智菩薩

龍猛の高弟にして南インド地方で法を広める。伝説では700歳まで生き、諸国を遊化して、天に昇り、地に入り、無碍自由の身を持ち、金剛智へ灌頂を授けたといわれる。

金剛智三蔵(671~741)

中インドの国王の王子として生まれる。幼少にして学を好み、10歳にして父の許しを得てナーランダ寺に入る。31歳で南インドにて龍智から金剛頂経などの経典が伝えられる。そこで、中国で仏教が盛んであることを知り、航路中国に渡り、密教の基盤をつくる。訳経が終わり、インドに帰る途中、広福寺にて病にかかり、72歳で寂滅。

善無畏三蔵(637~735)

中インドの人で、釈迦族の後裔といわれる。13歳で王位を兄に譲り中インドのナーランダ寺に入る。そこでダルマキクタより密教の教えを授かり、また、ダルマキクタに従い陸路中国にわたる。中国ではもっぱら訳経に従事し、虚空蔵求聞持法一巻を訳した。また、一行とともに大毘盧遮那経を訳し、その要をとって大毘盧遮那成仏神変加持経七巻を作成したが、これが大日経とよばれるようになった。79歳で入寂。

不空三蔵(705~774)

密教付法第六祖。北インドバラモンの子、幼くして父を亡くし、叔母に従い中国にわたる。そこで、金剛智に会い、その門下に投じ、主に金剛頂系密教を学んだ。その後、金剛智の遺旨を受け、南インドの渡り、龍智から金剛頂系密教の秘法を授かる。中国に戻ってからは国家の安泰に尽力し、文殊菩薩信仰や密教の宣布につとめた。 ※ 「付法」とは、師資相承の系譜にしたがっているもの。これと実際に法を広め護持した「伝持」のものがある。付法八祖に従えば、第一祖大日如来、第二祖金剛薩?、第三祖龍樹菩薩、第四祖龍智菩薩、第五祖金剛智三蔵、第六祖不空三蔵、第七祖恵果、第八祖弘法大師となります。 伝持の八祖の場合は第一祖大日如来及び第二祖金剛薩?をはずして、善無畏と一行を入れることになります。

一行(683~727)

現在の中国山東省の出身、幼少より暦、陰陽、五行の学を修め20歳で出家。のち、天台山国清寺に登りことごとく訣を受け、次いで、金剛智三蔵に会い陀羅尼秘印を学び、また、善無畏とともに大毘盧遮那経を訳した。わずか45歳をもって示寂する。

恵果(746~805)

真言宗付法第七祖、現在の中国河南省洛陽の出身。少年時代に不空三蔵に師仕し、14歳頃には法の霊験を現すに至る。20歳の時、金胎両部の大法を授けられ、伝法大阿闍梨となる。以後、国師として崇仰され、法化はますますさかんとなる。空海入唐のさいは青龍寺にて、ただちに付法の灌頂を授け、法脈を日本へ伝えさせた。60歳で寂滅。

弘法大師

真言宗付法第八祖 。