楊仁山自身も自ら教鞭をとり、当時、仏教界、思想界に大きな影響を与えました。清代末期の学者「梁啓超」は、この場所を思想界の一支流になると称し、現に門下生として「欧陽竟無」など著名な仏教学者を生んでいます。清代光緒年間初頭(1875〜1908)、楊仁山居士は外務関係の仕事に従事しイギリス、フランスへ行くことになります。そこで、彼はすでに中国から流失した古代の仏教原書を発見することになり、感慨深く、次代に残る刻印経書作成に力を込める決心をするのでした。この間、日本の仏教家「南條文雄」氏と知り合い、共に仏教学の研鑽に励むようになります。